『待合室』14号掲載記事

廃線跡探索 〜旧歌志内線


歌志内市というのは、ある意味有名な市である。それは、日本で一番人口の小さいミニ市ということである。 歌志内よりも大きい「町」は、道内だけでも余市、岩内等数多くある。 そのため「市制返上」という声が聞こえてきたり、山側の赤平市との合併も囁かれる。 それを象徴する例として、赤平市と歌志内市を管轄する「赤歌警察署」の存在がある。

歌志内市を走っていた旧歌志内線は、石炭輸送を主な役割としていた。 しかし、他の旧産炭地の例に漏れず、石炭輸送の衰退と人口流出によって昭和63年に廃止された。

私にとって、この歌志内線は印象に残る路線だ。私が初めて歌志内線に乗ったのは廃止の一週間前だった。 平成3年には、当時はまだ残っていた旧歌志内駅を見に行った。 旧歌志内駅は平成4年か5年に取り壊されたと言うことを何かで読んだことがあったので、 あれから6年が経た現状はいかばかりかと思い、今回訪れてみることにした。


取り壊される前の旧歌志内駅(平成3年5月)

◇ ◇ ◇

駅跡地の周辺には、北欧風建築の観光案内センター「ALPHEIM」(アルプハイム)が建てられており、線路跡は市道?になっていた。 歌志内線がまだ走っていたころ多くの人が撮影に訪れた「ズリ山と歌志内駅、石炭列車」の撮影ポイントからは、 もう山をきれいに眺めることは不可能になっている。 鉄道廃止後に建設されたバス待合所には、6年前にはキオスクが有ったのだが、現在は閉店されている。 また、待合所の荒廃も進んでおり、「待合室を壊したりするのを見たら警察まで」と言う旨の張り紙がある。 たかがバス待合所といえども、市の中心部に有る交通拠点なのだから、このような現状は歌志内市の品位を傷つけると思うのだが。


旧歌志内駅周辺の変容(平成9年4月)

旧駅横にあった商店はすでに閉店していた。当時を偲べるものは駅跡から見た市街地風景だけになってしまった。 当時の待避線跡の部分に、前述の観光案内センター(郷土資料館?)「ALPHEIM」がある。中に入ってみることにする。 この用地のルーツを知らせるためであろう、受付横に「歌志内線の思い出」というパネルが掲示されていた。 開館当初は有料だったらしく、当時の入場券が値段を塗りつぶして配布されていた。

客は他にいなかったが、わざわざ係員が資料室を開けてくれた。 そのうえビデオ装置まで稼働させてくれたので短時間で帰るわけにはいかなくなってしまった。 ビデオは市の紹介と旧歌志内線のビデオなど数種類があり、私は歌志内線のビデオを見ることにする。 ビデオは砂川市と歌志内市の共同制作で約30分の長編である。 内容はお決まりの昔話や前面展望(駅付近のみ抜粋)、走行シーン、石炭産業との関わりなどで、この手のビデオにしては上出来である。 走行シーンにはキハ54や56が多く、廃止直前に制作したことがよく分かる。 また、このビデオで象徴的に出てくる女子高生はすでに結婚適齢期のはずであり、時の流れの速さを感じる。 同線が廃止になったのはつい最近のような気がするのだが…。

続いて資料室を覗いてみる。歌志内で開催される「しょってけ祭り」の「石炭御輿」や、秋田の「なまはげ」などが展示されているのが面白い。 資料室を出てお土産コーナーを見ると、小学生向けの郷土史の副読本が販売されていた。 かつての炭鉱街の繁栄ぶりが伺え、歌志内史・石炭史入門として気楽に読める構成になっている。


資料室に展示されている「石炭御輿」「なまはげ」など

◇ ◇ ◇

観光案内所を出て砂川方面に向けて歩き出す。しばらく歩くと旧歌神駅が見える。 ここはホームだけの駅で、若干壊されているものの、構造ははっきり分かる。 線路跡をたどるのは前半は割合簡単で、小鉄橋などの構造物もその姿を見せてくれた。 途中で見た旧神歌5号橋梁(砂川起点13.2q)などは、長さわずか2.5メートルしかなく、この小ささが幸いして取り壊しを免れたようだ。


旧歌神駅

旧神威駅は駅舎ごと残っており、現在は同地区のお神輿の保管場となっている。 内部には、当時のポスターまで残っており、よく見ると「きっぷうりば」の表示まで見える。 待合室内には当時の時刻表まで現存しているかもしれない。ホームもきちんと残っており、旧歌志内線の中では最も鉄道当時を偲べる場所だ。 近くには、公営温泉の激戦区と言われる空知地区でも評価の高い「チロルの湯」が見える。この辺の線路跡は遊歩道となっている。 横には桜の記念植樹がされており、暇つぶしにそれらを見ていると、一般的な「…記念」の他に、 金婚式記念のくせに主人の名前だけで夫人の名前のない物や、「植樹記念」なる何の記念にもなっていない物まで様々あり、面白かった。 歩いているうちにだんだん疲れてきた。この日は既に旧美唄鉄道の美唄から東明までも歩いたので、かなり疲れていた。


旧神威駅

バス停の時刻を見ると、砂川方面行きは2時間ばかり無く、この場で待つか歩き続けるかの二者択一となってしまった。 仕方ないので歩くことにするが、疲れて判断力も鈍ってきた。 西歌駅周辺に至っては、線路跡を外れて歩いていたからか駅跡は見落とし、文殊駅跡地もあやうく見過ごしそうになったところで気がついたほどだ。

文殊駅は見過ごしても仕方のない状態で、車道からはただの平地にしか見えない。 線路跡をたどるとホームの断面が確認できるが、確信が持てないので、平行しているバス停を探してやっと「文殊」であることを確認した。 この周辺は、定住促進用なのか、新しい一軒家が目立つ。


旧文殊駅

やがて、ひと気のない地区に入り、未完成の自転車道を歩いてみるのだが、 文殊から焼山までの駅間距離は4.4キロもあるので、歩いている分には変化に乏しく、歌志内から歩く身には辛い。 しかし線路は撤去されていても、ごく稀にキロポストが残存しており、辛うじて鉄道跡を歩いている実感が湧く。 この道は焼山と歌志内市をつないでいるらしいが、こんな見る物のない砂川郊外の焼山から歌志内までサイクリングをする人がいるとは思えない。 朝日新聞で同時期に掲載された記事タイトル風に言えば、これが「税の悲鳴」なのだろう。

やがて何やら真新しい建物が見えてきた。「サイクリング レストハウス」なる建物が建っているが、実際に使われた形跡はなかった。 中を覗いてみると、ここが旧焼山駅跡地だという旨の掲示がある。 入り口付近は枕木が使用されており、鉄道跡の雰囲気を演出しているが、実際に線路で使われたものではないようだ。

その様な焼山駅跡地には、動輪を模した焼山駅跡地の記念碑が建てられている。 廃線後かなり早い時期に旧駅が取り壊されたことが、刻まれた日付(昭和63年11月24日建立)からわかる。 駅付近にある旧焼山中学校は何かの作業所として第二の人生を送っているが、 入口付近には今や文化財的価値を持つ(?)ほどに珍しくなった二宮尊徳の石像が現存している。 その横には、中学の裏山にあった焼山神社が移転してきたらしく、真新しい社が建設されている(かつては列車の中からも見えた)。 他にも砂川出身の戦没者慰霊碑もあり、木造の旧校舎や二宮尊徳像、旧焼山神社などど併せて見ていると昭和初期の雰囲気が伝わってくるような気がした。

その様な物を見物しているとちょうど数少ない歌志内線代替バスが来たので、それに乗り込む。 砂川まで150円だった。これは鉄道当時から殆ど変わっていない。(現在の鉄道運賃に換算すると200円)


前のページに戻る

inserted by FC2 system